昭和52年04月14日 朝の御理解



 御理解 第55節
 「賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をすれば一年一年有難うなってくる。」

 信心も若い時に一年一年有難うなってくるという基礎を作っておかないといけません。一年一年位がつくものじゃ。年が寄るほどね。信心は年が寄るほど位がつくものじゃ。信心をしておれば、誰でも年をとって行く事は間違いないけど。年を取っていくのに、位がつくかどうかと言う事。「家のお父さんな位がござる。何の位か酒くらい」ね。酒くらいじゃいけませんからね。それを教祖様は一年一年有難う成って来ると仰る。その一年一年、確かな有難さというものが位なんです。
 果たして御道の信心をさせて頂いておる、多くの信者が一年一年有難うなっていって行っておるだろうか。成程おかげはずうっと頂いておる。だから信心もやめもきらんでおる。本当に金光様ちゃ有難かとか、新たかだとかと言う事は分かっておるけれども、有難うは一つもなっていないとするならです。結局有難うなるいわば、基礎が出来ていないと言う事になるです。
 信心のいうならば、有難さというものは一年一年、有難うなっていくと言う事にあるんです。だから信心をしておれば。段々年をとっていく年をとっていきゃ、位がつくものだと言う様な事では決してないのです。位がつくほんならその位に対してね頂くものは、有難いというものです。一年一年有難うなって行く様な信心をせにゃいけん。そこで思わせていただくのですけれども。一年一年段々と言う事でしょうね。
 それからというて一年なら一年というものを振り返って見て、どれほどの信心の稽古が身に付いたか。どれほどのお期待に対して鍛われて来たかと言う事であります。問題はほんなら一年間なら一年を振り返って、どう言う様な鍛えられ方をしたかと。又その期待に対してどういう風に自分が上達したかと言う事になるです。鍛えられるたんべんに失敗しておる。鍛えられるたんべんに、言うならばどうしてと言う風に思う。これだけ信心しておるのにどうしてとね。
 鍛えられると言う事は、神様がこうして力を付けて下さる。神様がこうしてお徳を下さろうとする働きが生まれる。どうしてからこうしてと言う所に変わって、信心が鍛えられてきたかと言う事が芯になるのです。一年一年有難うなってくると言う事は。今朝私控えに入らせて貰うてずうっとそれこそ日本国中におられます、ここのご信者さん方の事をずうっとお願いを致します。先ず大分から始まってそして宮崎熊本、鹿児島という風にずうっとお願いをして、この頃では三十分間では、どうしても足りません。
 だからこの頃少し早めに出てくる。又は次の御祈念の時間に入ってお願いせんならんという。それだけご信者さんが増えたんだという風に思うのですけれどもね。鹿児島へ参りました時に、昨日の十三日会におかげを頂いておりました、佐田さんという方が十三日会たんべんに、月参りをいてくるわけです。そして、まぁささやかな商売ではありますけれども、十三日の売り上げの全部が、十三日会の御礼、十三日会の御用に使うて頂こうと言う風に腹を決めた。
 ところが昨日お供えをさせて頂く時に、おかげを頂きまして日頃の三倍売り上げがあっとります。そりゃ困ったのと私が言うた事で御座いましたけれどもね。それほどしの思いを一心に神様へ向けておる。久留米に着いたのが二時であったから、二時から歩いて参ってきておる。二時間かかって歩いてきておる。そして歩く道々色々と信心の事を考えながらここへ着いた。
 汽車で来れば随分お金がかかるから、あるお得意さんの車に便乗させて貰うて、そして自分が運転しようと言うて運転変わった途端に、その何か交通違反をして、六千円罰金取られたとこう言う。昨日十三日会で発表してましたですね。それほどしの思いを、神様へ向け。月に一回の月参りに、それこそ、信心の情熱を掛けておる。しかもただじゃ参らん。とにかく十三日の一日の売り上げ、利益じゃないですよ。
 その日の売り上げです、の全部を御礼十三日会として、神様の願いが成就する日という、ここから神様の願いが成就することの為に、お供えでもさせて頂こうと言う、いうならばこれは一大決心がなからにゃ出来ません。にも関わらず、どうして自分が、ハンドル握った途端に引っかかって、しかも、六千円の罰金を取られるか。ほんなら、もう汽車で来とる方が良かったと言うくらいなんです。
 私は鹿児島の所をずうっとこう、お願いをさせて頂いておる時に、その事をふっと思わせて頂いた。そしたら神様からお鍛えと言う事を頂いた。ははぁ神様のこの人は期待のある人だなと思ったら、もう部屋中にばぁっと、言う様なオイサミがありましたよ。神様の期待がある。だからお鍛えになってくるわけです。鍛えられるだけ鍛えておこう。いうならば若いうちに鍛う。若いというのはこう年配の事じゃないですよ。信心が若いというふうに頂いたら良いでしょう。
 でないともう年をとって信心させて頂く者は、もう位が付かんかと言う事になってきますから。そうじゃない信心が若いと言う事なんですね。信心のいうならばほんなら、肉体でも若い時に鍛えておかなければいけないように、信心も若い時に鍛うとかにゃいかん。もう参ってくる早々ね。はぁおかげを頂いておかげを頂いて有難い、勿体ないとと言う様なおかげの頂き方と、それと反対の事がある。
 それこそあだなえる縄の如しである。おかげと思うたら、またどうしてと思う様な事が起こってくるけれども、それをほんなら日頃頂いておる信心で受けて。はぁ神様はこうして力を付けて下さるんだなと。信心の有難いというのは、金光様のご信心の有難いというものはこの辺だ。力を下さらなきゃならない。今日私御祈念中に、ある方の事をお願いした。ある一つの問題があり、ちょっと壁にぶつかったと言う様な感じなんです。でその事をお願いさせて頂きよる。
 神様が下さろうと思うたら、わっけもない事たいと言われた。あのお芝居なんかのセリフでね。訳もない事という風に言うんですけれども。あのこうごろが良いようにね。わっけもない事という、いわゆる表現をするんです。そのわっけもない事神様にしてみりゃ、この壁を破ってやるぐらいな事は、わっけもない事なんだ。けれども今彼を神様が鍛うて下さってあるんだと言う事になるんですよ。今日も本当に結構な修行をさせて頂いて、有難うございましたと。
 今日も本当にお鍛えを頂いて、有難うございましたと、御礼の言えれるような信心がです。私は出来て初めて信心というものは、愈々一年一年有難なってくるんだと言う事です。私はわっけもない事と頂いた時にですね。はぁ成程芝居がかっておると言う事は、成程神様のご演出だなと思いました。それをなら演出と気付かず。鍛うて下さりよるととは分からずどうしてこう言う事。だからどうしてでそれを受けたらです。一年経っても二年経っても位はつかん、有難うはならんと言う事であります。
 言うならば信心は若いけれども、考える事がけなげな行う事が感心。神様が目を付けなさらん筈がない。ほんなら神様に目を付けられたら、難儀な事が起こってくるというのじゃなくてお鍛えが始まるんだ。私がまぁだ修行中の時分に、親教会で丁度夏の事でしたから、御用をさせて貰って、裸になって御用が終わった後裸になってね。あの汗を拭かせてもらいよった。その時分まだあのお風呂は、もう一生入らんつもりでしたから、お風呂も沸いてたけれども。
 まぁ身体を拭いてそしてあの、上がりがまちの所に裸になってから、手をひざにこう付いてこうしてから目を瞑って、っと御祈念した途端にもう私の目の前にです。もう横綱を張ったもうそれこそ、大きなお相撲さんが私のほんの目の前に立っておる所を頂きました。もうその頃は断食から断食と言った様な時代でしたから、もうそれこそあのなんと申しましょうかね。もういわば骨皮筋衛門のような、私の裸の姿の前にそれこそ横綱張った相撲取りがこうやって立っておる所を頂いた。
 はぁもう勇気百倍もう末は横綱か大関かと、神様が鍛うて下さろうとする事のための、今日の只今のこの修行だと思うから、もう修行が有難うして有難うして、また本当苦しい。苦しいけれども、一日を終わらせて頂いて、御神前に頂いたときには、神様今日も本当に結構な修行をさせて頂いて有難う御座いましたと言うて、御礼を申し上げると、昨日の、秋永先生じゃなかばってん、涙がぼろぼろ流れよったです。それこそ有難涙が。成程有難うなっていくはずだと言う事です。
 今日一日神様がねこの様にして、お鍛えを下さった。それに対して御礼を言う心。神様が、感動まします。その感動がこちらへ伝わってくる。それが一年締めくくってみるとです。成程去年よりも今年という様に、有難うなって来ておる。ここに初めてはぁ位が頂けたと言う事になるのです。だからそこからの例えば、若い時にはそういうほんなら、身体なら身体で鍛うて下さるけれども、段々そういう一つの基礎を作っていくとです。後は段々もう自然に位がついていく。
 それこそ一年一年有難うなって来る。その基礎を作らずして一年一年有難くなるという事は無い。例えば恩給なら恩給の付く所へ勤めておる。真面目に勤めてさえ行けば、給料も上がっていくし、言うなら位も上がっていくし、そして定年退職と例えば言う事になってくると、恩給もそれに付くようなもんです。年とってから信心年をとっていけばいくほどに、有難うなって来る。もうそれこそ有難い勿体ないで給料は、どんどん頂けるという事になってくる。幸福の条件があれもこれもと足ろうて来る。
 そのためにはどうしても、一つ賃を取ってする仕事は、若い時には人が頼むけれども、年をとったらもう頼んでくれん。神様が鍛えようと思いなさっても、信心の若さというものを無くしてしもうたら、神様が鍛えようと思われても、鍛えようがありなさらん。それこそ、昨日の御理解じゃないけれども。生き生きと瑞々しいね。生き生きと信心させて頂きよる時には、もう一切がはぁそれもおかげ、あれもおかげとこれに感じてくれる事が出来るんです。
 それは時々はそれこそ、どっこいとまぁ力を入れて、力まなきゃならん事もあるけれどもどっこいと。言うならばそこに立ち上がってその問題と対決する。それに打ち勝っていくと言う様な、おかげを頂いて初めて力がつくもんです。力がつくと言う事は一年を締めくくってみると、一年一年有難うなってくると言う事であり、位が付いて来ると言う事であります。信心しておれば位がつく。
 信心しておれば有難うなって来ると言う事では決してない。その証拠に沢山のご信者の中にです。何十年たったっちゃいっちょん、有難いと言う様な瑞々しさが欠けておる人が、沢山あると言う事。基礎を作っていないからなんです。私共でも思いよった。本当に難儀から難儀が続くときに、けどもこれは神様がどげなおかげば下さろうと思いよりござるじゃろうかという様な気がしよった。
 それが分かったらです。その言うなら難儀が修行として受けられるしそれが有難うなる。いわゆる生き生きした、ほんなら元気な心で信心せよと仰るのはそう言う事の為に、生き生きとした元気な心で、信心がなされなければいけんのです。一年一年有難うなっていく信心の基礎。そん時そん時自分の都合の良か時だけ、はぁ有難か勿体なかと、こういう信心じゃ駄目だと言う事。
 神様がお鍛えを下さる時に、そのお鍛えに対して、御礼が言えるような信心が、一年なら一年にどれだけ出来たかという事が、次の年の位であり次の年の有難くなった、言うなら高であります。ですからそういう一つの基礎が出来ておりますと、後は楽に位もついていきゃ、後は楽にもう愈々、有難い有難いになっていく。信心すれば一年一年有難うなって来ると仰せられるような信心を、一つさせて貰わにゃいけませんですね。
   どうぞ。